2018/01/25
田舎暮らしブログ
西行と文覚 待賢門院璋子と袈裟御前

加子母の大杉
加子母の大杉

文覚上人の終焉地

  岐阜県中津川市加子母字池ノ森に国指定天然記念物に指定されている『加子母の大杉』があります。樹齢が約1000年以上と言われる目通り幹囲13mの立派な大杉です。その大杉の下には地蔵尊と文覚上人のものと言われる墓があります。こんなところに文覚上人の墓があるとは知りませんでしたので改めて由緒書を読み、さらに文覚上人について調べてみました。以前からその生き方に心が惹かれその足跡を辿ってみようと思っていた西行とすり合わせて見てみると、生き方に大きな違いがあるけれど後世の人々は多くの共通する思い込みを二人に重ね合わせているようです。



文覚上人のものと言われる墓石
文覚上人のものと言われる墓石

西行と文覚

  文覚上人といえばほとんど同時代に生き、ともに北面の武士から若くして出家したという境遇の似た西行法師を思い出します。二人は同じ境遇から一見同じ思いで諸国を放浪したかに思われますがおそらく全然別の生き方をした二人であろうと思われます。ただ後世の戯作家がその境遇の特異性から想像力を膨らませて、世俗の人々の琴線を震わせる多くの演目が書き上げられたのでしょう。二人の共通点を先ずあげましょう。西行は1118年平安末期に生まれ1190年鎌倉幕府を見ずに72歳で没しています。方や文覚は西行に遅れること21年後の1139年に生まれています。そして頼朝の死を見届けて66歳で没しています。西行は奥州藤原氏の血筋で名は佐藤義清、1137年20歳で鳥羽院の北面武士として仕え1141年23歳で出家しています。文覚は摂津源氏の血筋で名は遠藤盛遠、鳥羽天皇の皇女統子親王の北面武士として1150年19歳で出家しています。文覚にすれば数年前に武士を捨てた西行のことは知っていたに違いありません。二人とも仏教に深く帰依したという点では共通しています。西行は鞍馬山、高野山で修行を重ねては奥州、中四国、伊勢の諸国への旅をしています。東大寺再建の勧進に奥州へ二度出向いています。文覚は神護寺をはじめ東寺、高野山大塔、東大寺の再興を時の権力者に働きかけています。もう一つ、出家の理由に高貴な人妻との不倫が絡んでいるという逸話も共通しています。



最晩年奥州への旅で西行が歌を詠んだ小夜の中山
最晩年奥州への旅で西行が歌を詠んだ小夜の中山

西行の思い

  西行は武人として優れた家系に生まれた上、武士として高位の役職にはありましたが、それより増して歌人としての才に恵まれていたのでしょう。出家してから死ぬまで一貫していたのは時の権力者とは距離を置いて、歌道、仏道、時に恵まれず逝った人々の供養に心を砕いた人と思います。西行法師と呼ばれるように一生僧位を得ていません。歌道をとうして多くの公家との親交が想像できますが何も求めず、檀家もない一階の僧侶として終わっています。妻子のある身でありながら出家をした理由は政争に明け暮れる宮廷の人々、争いに敗れ罪に甘んじる人々を見るにつけ、仏と歌への求道心が第一と考えるべきでしょう。



文覚がその再興を生涯の悲願とした神護寺
文覚がその再興を生涯の悲願とした神護寺


文覚の執念


  西行に遅れること21年同じく武家の名門に生を受けた文覚は北面の武士として武人としての道を歩みます。ただ学問、歌道などのには非凡なところはなかったようです。当時歌人としての西行の名声は文覚の耳にも届いていたと思われます。下世話な目で想像するに西行に対して若い文覚は憧れともやっかみとも思える感情を持っていたかもしれません。文覚は西行を嫌っていたとの記録があるそうです。ただ理由が分かりませんが出家をして仏道に道を見つけたとき、彼の凄まじいまでの行動力、執着心が発揮されるようになるのです。物言う僧侶、行動する坊主なのでしょう。そのため当然時の権力者からは制裁を受けることもあったわけです。3つの出来事を書きます。その1つ、文覚は鳥羽法皇に潰された神護寺の再興を後白河天皇に強訴します。その結果伊豆への流罪に会うことになります。その2つ、頼朝の死後の政変に連座して源通親によって佐渡へ流罪に会います。その3つ、後年後鳥羽上皇に謀反の疑いで対馬への流罪の刑を受けます。その裏には策略家としての顔があったのかむしれません。色んな噂話があります。伊豆に流された時、同じ流人の頼朝に義朝のドクロを見せて源氏蜂起を促した。木曽義仲に上洛して京で暴動を起こすように言い含めた。密かに伊豆を抜け出し後白河法皇に平氏追討の院宣をもたらした。

生涯桜を愛でた西行は吉野に庵を結んだこともあります。
生涯桜を愛でた西行は吉野に庵を結んだこともあります。


待賢門院(璋子)と西行

  西行の出家の原因は待賢門院との失恋であるとの逸話があります。佐藤義清(西行)の仕えた鳥羽天皇の中宮璋子との不倫の恋です。今の週間紙風に言うならばご主人鳥羽さんはお爺さん白河じ~に愛された璋子さんを嫁に貰いますが実はお爺ちゃんの子供を身ごもっていたのです。これがその後の争いのもとになるのです。鳥羽さんは璋子と多くの子供をもうけますが嫌になって別の嫁さんを貰います。そこで璋子はご主人のガードマンであった義清さんを誘惑します。もともと噂の多かった璋子さんは義清にも飽きて捨ててしまいます。若い義清は自暴自棄になって妻子も捨てて出家してしまうというものです。真偽のほどは分かりませんが平安期の宮中ではありうる話です。ちなみに爺ちゃんの子といわれるのが後の崇徳天皇です。崇徳天皇は父の鳥羽天皇に徹底的にいじめられ讃岐で悲嘆のうちに没します。西行は後年讃岐へ崇徳の追悼の旅にでています。

遠藤盛遠と袈裟御前は多くの歌舞伎、戯曲、映画の題材になっています。
遠藤盛遠と袈裟御前は多くの歌舞伎、戯曲、映画の題材になっています。


袈裟御前と文覚
前出の鳥羽天皇と璋子との間に生まれた第二皇女統子に仕えたのが遠藤盛遠と袈裟御前です。袈裟御前は盛遠の親友源渡の妻でした。盛遠が袈裟に言いよる不倫関係です。これも週刊誌風にゆうならば親友の奥さんと仲良くなった盛遠くんは渡くんを殺すべく計画を練ります。袈裟女史は贖罪にかられ身代わりとなって盛遠に殺されるというものです。これも文覚の出家の原因とするには出来過ぎています。しかし文覚上人の時の権力者も動かす行動力がこの逸話からもうかがえます。いずれにせよ後世の人々は武人から僧侶に身の置き所を変えた二人に人間の業と情を重ね合わせてドラマチックなストーリーを作り上げています。


 

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